11 こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。
12 あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。
13 次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか」と言った。
14 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。
15 パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。
モーセの自己認識について考えてみよう。彼は、5 歳ごろまで両親によって育てられ、その後およそ40 歳になるまで、エジプトの宮廷で教育を受けた。しかし彼は、ヘブル人であるという自覚を失ったことはなかった。ここに幼児教育の重要性を見ることが出来る。
40 歳になった頃、彼の人生の方向性を大きく変える出来事が起こった。(1)彼を養子に迎えたハトシェプスト(当時女王)が死に、その甥のトゥトモス3 世が単独でエジプトを支配するようになった。トゥトモス3 世はハトシェプストを憎んでおり、彼女の像や記念碑を破壊するだけでなく、彼女と関係のあった人々を暗殺し始めた。当然、モーセにも危険が迫っていた。(2)このような政治状況の下、モーセは同胞の所に出て行った。彼には、神は自分をヘブル人の解放者とされたとの自覚があった。彼は、1 人のヘブル人を助けるために、あるエジプト人を打ち殺した。(3)しかし、ヘブル人たちはモーセを解放者として認めないばかりか、彼がエジプト人を殺したことをパロに密告した。パロはモーセを殺そうとしたが、モーセはミデヤンの地に逃亡した。そこは、アカバ湾の東側、アラビア半島の西端にある地で、逃亡者が逃げ込むには最適の場所である。
教会時代の最初の殉教者となったステパノは、「モーセは使命感に燃えてヘブル人たちを救おうとしたが、ヘブル人たちはそれを理解しなかった」と語っている(使7:23 ~ 25)。さらに、ヘブル11:24 ~ 26 は、モーセが信仰によってこの行為を行ったと伝えている。「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました…」。確かに、モーセの行為は信仰的で立派なものであったが、彼には2 つの誤解があった。(1)神の時を誤解していた。神は、モーセを用いてヘブル人たちを解放しようとしておられたが、その時はまだ来ていなかった。神の時は、それから40 年後に訪れる。(2)ヘブル人たちを解放する神の方法を誤解していた。エジプト人を1 人ずつ殺していっても、ヘブル人の解放にはつながらない。真の解放は、神の方法によらなければ来ない。
神の時と神の方法を理解しないなら、いかに信仰的な行為であっても、真の祝福をもたらすものとはならない。自分にとって神の時はいつなのか、神の方法とはどのようなものなのか、黙想してみよう。自分は、神にとって用いやすい器になっているかどうか、自己吟味をしてみよう。
きょうの祈り
イスラエルの神よ。あなたの時と方法を私に教えてください。あなたの良き器とならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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