28 ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。
29 兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。
30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。
32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。
この箇所は、前回の箇所の続きである。祭司長と民の長老たちは、イエスが何の権威によって行動しているのかと問うた。それに対して、イエスは直接的回答を拒否したが、間接的には、3 つのたとえ話を通して答えている。たとえ話もまた、ラビ的教授法のひとつである。イエスが語った3 つのたとえ話の結論は、すべて同じである。では、最初のたとえ話を見てみよう。
(1)兄と弟がいた。「きょう、ぶどう園に行って働いてくれ」という父の求めがあった。(2)父の言葉を聞いて、兄は行くと約束したが、実際は行かなかった。弟は行きたくないと返事をしたが、後で思い直して、実際には行った。兄と弟の立場が逆転したのである。(3)イエスは、こう質問された。「ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのか」と。(4)イエスを糾弾していた者たちは、「あとの者こそ父の願いどおりにした」と答えた。当然のことである。
彼らの答えを聞いたイエスは、そこからたとえ話の適用に入る。(1)兄とは、ユダヤ人の指導者たちのことである。「兄とはあなたがたのことである」と言われた祭司長や民の長老たちは、驚いたことであろう。彼らは、神が遣わす預言者を信じますと告白しておきながら、バプテスマのヨハネを拒否し、またヨハネがメシアとして指し示したイエスをも拒否した。(2)弟とは、取税人や遊女たちのことである。彼らは信仰を告白してはいなかったが、バプテスマのヨハネが来た時、そのメッセージを受け入れた。彼らは、ヨハネが説く「義の道」を受け入れ、悔い改めのバプテスマを受けたのである。つまり、神の子とされているかどうか(信仰があるかどうか)は、行動によって証明されるということである。(3)かたくなな指導者たちは、神の国から遠ざけられたが、神の国から最も遠いと思われていた取税人や遊女たちは、そこに招き入れられた。
このたとえ話の結論は、衝撃的な逆転である。これが可能になったのは、神の恵みのゆえである。いかなる罪人であっても、イエス・キリストを信じるなら義とされる。神の恵みは、私たちの理解をはるかに超えるものである。信仰歴の浅い人を見て、みくびってはならない。信仰歴が浅くても、先輩たちよりも深く神の恵みを体験している人が必ずいる。謙遜になって、お互いの信仰から学び合おう。
きょうの祈り
天の父なる神さま。自らの信仰を、行動によって示すことができますように、私を助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
ネヘミヤ記3~4、ヨハネの手紙 第一3
ハーベスト・タイムによる無料の聖書講解動画(音声)サイト。
最新のメッセージ
毎朝6時にきょうの【クレイ】が
あなたのLINEに届きます!
» 登録はこちら