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マタイの福音書21:18 ~ 22

18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。

19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木はれた。

20 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」

21 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。

22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

枯れたいちじくの木

2 日にわたる出来事

マタイは時の経過を省略してこの箇所を記録しているが、マルコ11:11 ~25を読めば、これが2 日にわたる出来事であることが分かる。イエスがいちじくの木を呪ったのは、月曜日である。その日イエスは、エルサレムで活動した後、ベタニヤに戻って夜を過ごされた。そして翌朝(火曜日)、再びエルサレムに向かわれた。その途中、弟子たちはいちじくの木が枯れているのを発見した。この箇所の意味を、イエスの人性と神性という2 つの側面から、考えてみよう。
(1)空腹を覚えたという事実は、イエスの人性を示している。過越の祭りは春の祭りである。この時期、いちじくの木は葉を茂らせるが、そのとき小さな実(初なり)をつける。これは食べることができる実である。イエスが期待されたのは、実際の実がなる前の小さな実であった。しかし、そのいちじくの木には葉のほかは何もなかった。(2)イエスはそのいちじくの木を呪われた。この行為は、イエスの神性を示している。このいちじくの木は、イスラエルの民の霊的状態(パリサイ主義の信仰)を示す視聴覚教材であった(エレ24:5、ホセ9:10)。外側は敬虔けいけんそうに見えながら、霊的実質が伴っていないのが当時のパリサイ派の信仰であった。イエスは、このいちじくの木を呪うことによって、パリサイ的信仰を否定されたのである。

弟子たちへの教訓

この出来事は弟子たちへの教訓でもあった。いちじくの木が枯れているのを見て、弟子たちは驚いた。イエスは、弟子たちに2 つの教訓を教えた。(1)枯れたいちじくの木は、不信仰なイスラエルの民の運命を予表している。エルサレムは紀元70 年にローマ軍によって滅ぼされるが、滅びの真の原因は不信仰にあった。後世のラビたちは、エルサレムが滅びた原因をさまざまな角度から論じている。「安息日を軽視したから」と主張する者や、「経札(聖句の入った小箱)をつけなかったから」と論じる者もいた。しかし真の原因は、イエスのメシア性を否定したことにある。(2)信仰による祈りには力がある。「山が動いて海に入る」という表現は、ラビたちがよく使ったものである。イエスは、当時よく知られていた表現を用いて、信仰による祈りには力があることを弟子たちに教えた。
実をつける信仰、また力ある祈りとは何かを、考えてみよう。へりくだって神の知恵と力に信頼する人には、常識では不可能と思えるようなことが可能になる。今、主からの知恵と力を求めよう。

きょうの祈り

天の父よ。私が実をつけるいちじくの木となれますように、私を聖霊で満たしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

エズラ記9~10、詩篇127 ~ 128