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マタイの福音書15:10 ~ 14

10 イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。

11 口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」

12 そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」

13 しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。

14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

たとえで語るイエス

群衆に対して

「清めの洗い」に関する論争の続きである。イエスは群衆を呼び寄せて、こうお語りになった。「聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します」。これはたとえを用いた教授法である。しかし、群衆も弟子たちも、その意味を理解することができなかった。イエスは、ユダヤ人の指導者たちがイエスのメシア性を拒否した時から、たとえを多用するようになっていた。その目的は、群衆の目からは真理をかくし、弟子たちには真理を見せるためであった。

弟子たちに対して

次に、弟子たちがイエスのもとに来て、パリサイ人たちが腹を立てていると報告した。それに対してイエスは、さらに2 つのたとえを用いて、パリサイ人たちの現状を解説された。(1)「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます」。これは、神から出ていないことは、やがてみな滅びていくという意味である。口伝律法やパリサイ派の教えは、神が植えた木ではない。それらのものは、やがてみな滅びていく。(2)イエスの教えの重みをしっかりと受け止めようではないか。現代のユダヤ教は、口伝律法(ミシュナ)から発展したタルムードという聖典を信仰の土台にえている。タルムードの教えがいかに深遠で伝統のあるものであったとしても、啓示された神のことばと矛盾むじゅんしているなら、それは「人間の教え」に過ぎない。タルムードは、聖書が教える単純な真理を極めて複雑なものに変えている。(3)「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです」。これは、エルサレム滅亡めつぼうの預言である。紀元70 年にローマ軍が町と神殿を破壊した時に、この預言は成就した。イエスは、指導者コンプレックスに陥っているユダヤ人たちの悲劇を、この時点ですでに見抜いておられたのである。
私たちは、外面的に華麗かれいなものに引かれて行く性質を持っている。それゆえ、常に、神から出ていないものはむなしいものであることを思い出す必要がある。人から出たものは、いつか滅びてしまう。特に、神に敵対する人物や思想は、永遠の罰を受ける。神が啓示された救いの道(イエス・キリストの福音)は単純である。私たちは、恵みにより、信仰によって救われた。「イエスは主なり」と告白し、父なる神をたたえようではないか。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。どうか私の霊の目を開いてください。開いた目で、迷いの中にある人たちを導くことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

ヨブ記34〜35、ヘブル人への手紙4