34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。
35 それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」
36 それから、イエスは群衆と別れて家に入られた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、
42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
43 そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。
ユダヤ人たちがイエスのメシア性を拒否して以降、イエスの教え方に大きな変化が起こった。イエスは、「たとえを使わずには何もお話しにならなかった」とある。つまり、「奥義としての王国」の時代に入ってからは、イエスはたとえ話だけで群集にお語りになったということである。(1)たとえ話には、真理を隠すという側面がある。あまりにも単純過ぎるので、不信者には真理が見えなくなるのだ。(2)信者にとっては、たとえ話の意味は明瞭であるが、もし理解できない場合は、イエスから直接その解説を聞くことができる。(3)この教授法は、預言の成就でもあった。詩篇78:2 には、「私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう」とある。イエスはその預言を成就されたのである。
弟子たちが毒麦のたとえの説明を求めたので、イエスは次のように解説された。(1)「良い種を蒔く者」とは、「人の子」である。つまり、メシアであるイエスが良い種を蒔かれるのである。(2)「畑」とは、この世界のことである。(3)「良い種」とは、御国の子どもたち、つまり、イエスをメシアとして受け入れた人々のことである。(4)「毒麦」とは、悪い者の子どもたち、つまり、暗やみに属する人々のことである。(5)この世という畑に毒麦(悪い者の子どもたち)を蒔くのは、神の敵である「悪魔」(サタン)である。(6)しばらくの間は、良い麦と毒麦とが並行して育つが、そのままにしておいてよい。世の終わりには、「収穫」の時が訪れるからである。収穫の時とは、神の裁きの時のことである。裁きを実行する刈り手とは、「御使いたち」(天使)のことである。(7)裁きの天使たちを遣わすのは、「人の子」(メシア)である。(8)裁きの結果は、歴然としている。やみの子どもたちは、「火の燃える炉」に投げ込まれ、そこで泣いて歯ぎしりする。なんと恐ろしいことか。それに対して、正しい者たちは、大いなる祝福に与る。両者の運命には、超え難いほどの差が生じる。(9)主イエスを信じる者が受ける祝福とは、以下のものである。「そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい」
毒麦がはびこっているのを見て、失望する必要はない。今の時代は、良い麦と毒麦が同時に生長する時代である。失望せずに義の道を歩み続けよう。神を恐れる者が受ける報いは、大きいのだから。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。どうか私に、約束のものを受けるために必要な忍耐を与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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マラキ書3~4、テモテへの手紙 第二4
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