1 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
4 神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
7 『 わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
8 人の子は安息日の主です。」
イエスの弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んで食べた。それを見つけたパリサイ人たちは、イエスと弟子たちを、安息日違反という理由で糾弾した。旅人が麦畑の麦を取って食べること自体は、モーセの律法によって許されていた(申23:25)。パリサイ人たちが問題にしたのは、安息日にそれを行ったという点である。当時のパリサイ的ユダヤ教は、「安息日を聖なるものとせよ」という命令に、約1,500 もの細則を付加していた。安息日に麦の穂を摘んで食べるのは、4 つの細則に違反した罪の行為であった。① 麦を収穫した罪、② 脱穀した罪、③ 実と籾殻を選別した罪、そして、④ 食糧を貯蔵した罪。今の時代に生きる私たちも、このような重箱の隅をつつくパリサイ的精神と決して無縁ではないはずである。最近、信仰の本質とは無関係な議論をしたり、人間が作ったルールに縛られたりしてはいないだろうか。
(1)イエスは、ダビデの生涯に起こったある出来事を例に出された(1 サム21:3 ~6)。ダビデは、神の宮にあった「供えのパン」を取って食べ、部下たちにもそれを与えた。パリサイ的ユダヤ教によれば、レビ人でない者に供えのパンを与えることは禁止されていた。つまり、ダビデの行為は律法違反となる。しかし、この行為を責める人はいない。つまり、パリサイ的ユダヤ教はこの行為を禁じているが、モーセの律法はそうではないということだ。(2)安息日であっても、宮(神殿)で仕える祭司たちは休まなかった。それどころか、安息日には普段の倍の捧げ物を用意した。つまり、宮の中には安息日の規定が適用されなかったということである。イエスご自身は宮よりも大きなお方、安息日の規定を超越したお方である。(3)イエスは、ホセア6:6 を引用し、「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」と言われた。つまり、愛の行為や人を癒す行為は、安息日に行ってもいいのである。
「人の子は安息日の主です」。これは、イエスのメシア宣言である。安息日は、イスラエルの民が休息を取るため、また、善を行うために設けられたものである。イエスは常に、人々の行為が「いのちを救うこと」につながるかどうかを見ておられる。私たちはどうか。滅びに向かいつつある人々の「いのちを救うこと」が、最大の関心事となっているだろうか。もし、伝統や形式を守ることにより深い関心を払っているなら、神の前に悔い改め、方向転換をすべきである。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。いのちが一番大切であることを教えてくださり、感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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ミカ書1〜2、テサロニケ人への手紙 第二1
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