9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
11 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
13 『 わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
メシア運動の吟味が「観察の段階」から「審問の段階」へ移行すると、律法の専門家たち(パリサイ人たち)は、言葉に出してイエスに挑戦するようになる。(1)当時、取税人は同胞から忌みきらわれていた。取税人は売国奴であり、同胞を搾取することによって裕福になっていると考えられていた。取税人は、共同体の交わりから追放された。(2)取税人には、所得税を取り立てる取税人と通行税を取り立てる取税人がいたが、後者の方がより嫌われていた(マタイは後者)。(3)そのマタイに、イエスから声がかかった。「わたしについて来なさい」。彼は、ローマ皇帝よりも権威ある方から声がかかったと感じ、財産も地位も捨てて、すぐにイエスに従った。漁師なら、元の漁師に戻ることができるが、取税人の場合、それは不可能である。かくして、イエスの7 番目の弟子が誕生した。
イエスに従った瞬間、マタイは霊的に新生した。その喜びの結果が、宴会となった。(1)ユダヤの律法では、取税人が交わることができるのは、取税人仲間と罪人(娼婦のこと)だけであった。この宴会に招かれたのも、取税人と罪人だけであった。(2)そこに、イエスとその弟子たち(6 人)も出席した。(3)それを見たパリサイ人たちは、もしイエスがメシアであるなら、汚れた人々と交わるはずはないと迫った。
イエスは3 つの面から返事をされた。(1)「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」。(2)「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」。「いけにえ」とは、パリサイ人たちが実行しようとしていた律法主義的生活を指す。「あわれみ」とは、行為の背後にある動機のことである。パリサイ人たちは、病人(罪人)に対して厳しい律法主義的な生活を要求したが、同情心や愛は持っていなかった。(3)「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」。パリサイ人たちは、自分のことを「正しい人」と考えていた。メシアは、自己義認をしている人を招くためではなく、自らが罪人であることを認めている人を招くために来られた。
「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」というイエスのことばを、自分の生活に適用してみよう。具体的な局面で、イエスの愛と憐れみを示すことができるように祈ろう。私たちは、神の愛をこの世に届ける使者であり、器である。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。私のような罪人を招いてくださり、感謝します。主イエスは私の救い主、メシアです。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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