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マタイの福音書8:18 ~ 22

18 さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。

19 そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」

20 すると、イエスは彼に言われた。「きつねには穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子にはまくらする所もありません。」

21 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」

22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」

弟子の条件

最初の弟子志願者

イエスの弟子になりたいと願う者は、多くいた。しかし、そのほとんどが弟子になる資格のない者たちであった。この箇所から、イエスの弟子になるための条件について学んでみよう。ここでは、ふたりの弟子志願者が登場する(ルカ9:57 以降では、3 人の志願者が登場する)。
最初の弟子志願者は、律法学者であった。彼は、イエスが高名なラビであることを認め、こう申し出た。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります」。実にいさましい申し出であるが、彼には不足しているものがあった。(1)彼は、弟子になるために支払う犠牲ぎせいがどれほどのものか、分かっていなかった。救いは、信仰により、恵みによって与えられる。しかし、イエスの弟子になるためには、自己犠牲が要求される。(2)イエスは、ご自身のことを「人の子」と呼ばれた。旧約聖書では、「人の子」という言葉は、弱く、はかない被造物である人間を表すものである(詩8:4、エゼ2:1 など)。と同時に、永遠の主権を持ち「天の雲に乗って来られる」メシアをも表している(ダニ7:13 ~14)。イエスは、100 パーセント人であるが、同時に栄光の王でもある。イエスは、ご自身の栄光を人の姿の中に隠して、地上を歩まれた。これこそ、自己否定の究極的な姿である。(3)イエスは、地上生涯においては、貧困ひんこん以下の生活をされた。それが、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」という言葉の意味である。

第二の弟子志願者

次の志願者は、「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください」と申し出ている。イエスの答えは、「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」であった。(1)ここは、よく誤解される箇所である。長男は父を最後まで看取みとり、さらにその後1 年経ってから、その責務から解放されるというのが当時のユダヤ人の習慣であった。つまり、この人の父はまだ死んでいないのである。(2)彼の問題は、決心したが、その実行を引きばしているという点にあった。
イエスが弟子に求める条件とは、犠牲の大きさを熟慮じゅくりょすること、そして、決心ができたら、すぐに従うということである。私たちはどうだろうか。救われただけで満足しているか、あるいは、良き弟子になることをこころざしているか。「弟子としてください」と心から祈ろうではないか。主は、私たちの決断を祝してくださる。

きょうの祈り

天の父よ。私をイエスの弟子としてください。決断したことを実行に移す力を、私に与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

エゼキエル書36~37、エペソ人への手紙5

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