24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
29 というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
すでに、「2 つの道の対比」、「2 種類の預言者の対比」、「2 種類の告白の対比」について学んだ。今回は、「2 種類の建築家の対比」がテーマになっている。
(1)賢い人は、岩の上に家を建てた。この人は、何事をするにも、基礎作りが大切であることを理解している。そのため、試練(嵐)が襲って来ても、倒れることはない。賢い人とは、イエスのことばを聞いて、それを実行する人のことである。(2)愚かな人は、砂の上に家を建てた。この人は、基礎作りの重要性を理解せず、手っ取り早い方法、安易な方法を選んだ。その結果、試練(嵐)が襲って来ると、押し流されてしまう。「砂の上」とは、ワジ(水なし川)のことである。乾季の間は、ワジは水の流れていない平坦な砂地であるが、雨季になると、鉄砲水に見舞われる危険な場所となる。愚かな人とは、イエスのことばを聞いても、それを実行しない人のことである。
救いは、信仰により、恵みによって与えられる。これが聖書の教えであり、私たちの確信である。と同時に、行いのない信仰は、死んだ信仰であることも事実である。死んだ信仰は、試練が襲って来た時には、なんの役にも立たない。最高の危機管理は、「賢い人の信仰」を持つこと、岩の上に人生を築くことである。
群集は、イエスの教えに驚嘆した。イエスが律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。当時の律法学者の教えは、それまでに登場した高名なラビたちの教えを延々と引用し、最後に、ほんの少しだけ自分の意見をつけ加えるというものであった。それに対して、イエスの教えには権威があった。これは、非常に新鮮で、衝撃的なスタイルであった。
山上の説教(マタ5 ~7 章)は、次の2 点にまとめることができる。(1)山上の説教は、メシアによる「律法の義」の解釈である。イエスは、律法(旧約聖書)を否定されたのではなく、その正しい解釈を示されたのである。(2)イエスは、当時のユダヤ教の律法解釈を否定された。当時のユダヤ教は、口伝律法(ミシュナ法)に立脚したユダヤ教であった。イエスが口伝律法を否定したため、イエスと律法学者たちの論争に激しさが増し加わることとなった。
私たちの人生は、岩の上に建てられたものだろうか。それとも、砂の上に建てられたものだろうか。今、自らの信仰生活を省みて、賢い人としての歩みを開始しよう。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。どうか私が、賢い人、岩の上に家を建てた人となれますように、私を助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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エゼキエル書28~29、エペソ人への手紙3
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