16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
17 しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
18 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。
パリサイ人たちが善行と考えていた行為が3 つある。① 施し、② 祈り、③ 断食。イエスはその3 つの行為を再解釈された。すでに、最初の2 つ(施しと祈り)の再解釈は終わった。この箇所では、第3 の善行である断食が再解釈される。ここでも、イエスの論点は、人に見せるための断食か、神に喜ばれるためのそれか、という点にある。
新約聖書には、断食をせよという命令は出てこないが、自発的に断食する人はかなりいたようである。パリサイ人の場合は、週2 回の断食を習慣として行っていた(ルカ18:12)。また、バプテスマのヨハネの弟子たちも、その習慣に従っていた(マタイ9:14)。しかしイエスは、花婿(イエスのこと)がいる今は、その習慣に従う必要がないと教えられた(マタ9:14 ~17)。イエス時代のユダヤ人たちは、安息日や祭日には断食をしていなかった。また、花婿は贖罪の日においてさえ断食をしなくてもよいとされていた(贖罪の日は、一年のうちで最も聖なる日で、ユダヤ人全員が断食を行っていた)。
(1)断食は、あくまでも自発的なもので、強要されてするものではない。(2)もし、人に見せるために断食するなら、それは偽善となる。断食が、敬虔さを誇示するための手段となるなら、人からの称賛は受けられても、神からの報いは受けられない。だから、頭に油を塗り、顔を洗うように勧められているのである。(3)これらを理解した上で、神に近づくために断食するなら、それは祝福となる。
(1)幼子イエスを祝福した女預言者アンナ(アセル族のパヌエルの娘)は、若くして夫を亡くし、その後やもめとして暮らし、当時84 歳になっていた。彼女は、神殿を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた(ルカ2:36~ 38)。(2)主イエスは、公生涯を始めるに当たって、断食を実行された(マタイ4:2)。(3)アンテオケ教会が行った世界宣教も、最初は、断食と祈りから始まった(使13:2 ~3)。(4)パウロの一行は、宣教旅行の中で、新しく誕生した教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈った後、彼らを主の御手に委ねた(使14:23)。(5)使徒パウロも、断食を実行した(2 コリ6:5)。
断食に限らず、私たちのすべての行為は、隠れた所で見ておられる天の父に知られている。私たちが信仰によって行ったことは、すべて神に覚えられている。今、このことを受け取り、平安をいただこうではないか。
きょうの祈り
天の父なる神さま。私のすべての行為が、隠れた所で見ておられるあなたに喜ばれるものとなりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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エゼキエル書12~13、ガラテヤ人への手紙3
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