18 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
20 彼らはすぐに網を捨てて従った。
21 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。
ルカ5:1 ~11 を参考にすると、弟子たちの召命の全貌が明らかになる。イエスは、4 人の弟子たち(ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ)を召した。これは、唐突な呼びかけではない。ヨハネ1 ~2 章によって、この4 人がバプテスマのヨハネの弟子たちであり、すでにイエスとの関わりを持っていたことが分かる。
(1)湖畔で教えていたイエスは、群衆が迫って来るので、ペテロの舟に乗って湖上から教えることにした。(2)講話が終わると、イエスはペテロに命じて湖に網を降ろさせた。ペテロは漁師であり、イエスは大工である。本来ならペテロは、「日が高くなると魚は取れません」と言って、その申し出を断ることもできたはずである。しかし彼は、イエスのことばに従って網を下ろした。すると見たこともないほどの大漁になった。(3)その瞬間、ペテロはイエスの偉大さに目が開かれ、畏怖の念に襲われた。「私は罪びとです。私から離れてください」(ルカ5:8)という叫びは、私たちのものでもある。
人間同士の比較で終わっているうちは、自分が罪人であることは見えてこない。しかし、主イエスを基準にして自分の姿を見るなら、自分への評価が変わってくる。主イエスは被造世界を超越したお方であるが、人となって被造世界に住んでくださった。主イエスの栄光を拝し、健全な恐れをもって御前に出る人は幸いである。
イエスはペテロにこう呼びかけた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(19 節)。(1)ユダヤ教では、弟子たちがラビを選ぶのが普通であるが、ここでは、ラビであるイエスが弟子たちを選んでいる。(2)彼らは、「人間をとる漁師」という言葉を聞いて、心に挑戦を受けたことであろう。魚をとるためには、その魚の性質、餌の好み、水深、風向き、気温、光の具合など、あらゆる条件を考慮に入れなければならない。人間のたましいを勝ち取るのもそれと似ている。彼らは、漁師としての経験を、神の国のために用いるように召されたのである。神が私たちを召されるとき、過去の経験が無駄になることは決してない。その経験が有効に用いられるのである。(3)ペテロとアンデレは、イエスに従うために網を捨てた。ヤコブとヨハネは、舟も父も残して従った。ここには、主イエスへの全面的な献身と信頼がある。彼らは、生活の糧を稼ぐための職業を捨てたが、それは、すべての必要は神によって満たされると信じたからである。
きょうの祈り
天の父よ。この4 人の弟子たちが示した献身の姿勢から教訓を学ばせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
エレミヤ書28~29、詩篇63 ~ 64
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