22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
ヤコブは夜のうちに起きて、家族を連れてヤボク川を渡り、次に家畜も渡らせた。ヤボク川は、ギルアデとアモンの境界線を東西に流れ、ヨルダン川に注ぎ込む。その川を渡ると、カナンの地は目前である。その後、ヤコブだけが元の場所に戻った。つまり、川の南岸に家族と家畜が、北岸にヤコブがいる状態である。ヤコブがひとりになったことで、神との格闘の舞台ができ上がった。
「すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した」。(1)「ある人」とは、「【主】の使い」、つまり「第2 位格の神」(受肉前の子なる神)である。その人が夜明けまでヤコブと格闘した。(2)「格闘した」は「ヤアベク」である。泥まみれになるという意味で、ここにしか出てこない珍しい動詞である。ここには、言葉遊びがある。それは、ヤコブのこの体験を、永遠の記憶として後世に残すための文学手法でもある。「ヤコブは、ヤボク川で、神とヤアベクした」というのがその言葉遊びの内容である。
格闘は、夜明けまで続いた。(1)それは、決着のつかない激しい戦いであった。ヤコブにとっては意味不明の戦いであるが、彼は命がけで戦った。その人は、ヤコブに勝てないのを見て取った。(2)「【主】の使い」がなぜヤコブに勝てなかったのか。第2 位格の神にとっては、ヤコブを倒すことなど実に容易なことである。ヤコブが最後まで持ちこたえることができた理由は、第2 位格の神がご自身の力を制限されたからである。(3)1 コリント10:13 に、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」とあるが、そのとおりのことが起こったのである。(4)その人は、ヤコブのもものつがい(股関節)を打った。これは、超自然的な神の御業である。同じような例が、イザヤ6:7 にある。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」。(5)ヤコブは、もものつがいがはずれても、諦めないで頑張った。相手が超自然的なお方であるとの認識が生まれてきたからである。
ヤコブの格闘は、祈りの格闘である。信仰による熱心な祈りは、神をも動かす力となる。ヤコブのこの祈りの姿勢から、教訓を学ぼう。日頃の祈りの姿勢を振り返ってみようではないか。
きょうの祈り
全知全能の神よ。どうか私に、祈りの情熱を与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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サムエル記第一2~3、ルカの福音書17
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