5 リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それでエサウが獲物をしとめて来るために、野に出かけたとき、
6 リベカはその子ヤコブにこう言った。「いま私は、父上が、あなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。
7 『 獲物をとって来て、私においしい料理を作り、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、【主】の前でおまえを祝福したいのだ。』
8 それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。
9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。
10 あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」
イサクの家庭は、分裂状態にあった。「イサクがその子(彼の子)エサウに話しているのを」(5 節)とあり、「リベカはその子(彼女の子)ヤコブに言った」(6 節)ともある。この2 つの表現によって、両親がそれぞれ好みの子を持っていたことが分かる。つまり、父親はエサウを愛し、母親はヤコブを愛していたということである。イサクの言葉を聞いたリベカは、早速策略を練る。ヤコブをエサウに仕立てて、イサクからの祝福を得ようというのである。しかし、ここでのリベカの罪とは、族長の祝福をエサウから奪おうとしたことではない。長子の権利とそれに伴う族長の祝福は、法的にはすでにヤコブのものとなっていた(エサウは長子の権利をヤコブに売り渡していた)。従って、リベカの罪とは、長子の権利の略奪ではなく、イサクを欺こうとしたことにある。先に行ってから分かるが、リベカもまた罪の裁きを受けることになる。兄のエサウの復讐を恐れたヤコブは、家を出るようになるのだが、それが、リベカとヤコブの今生の別れとなる。
リベカはなぜ、このような愚かなことを考えたのであろうか。究極の原因は、信仰の欠如である。リベカは、神からの啓示を受けていた。その啓示によれば、弟のヤコブが長子の権利を引き継ぐことになる。リベカは、神の時と神の介入を待つべきであった。イサクやエサウがどのように振る舞おうとも、神は必ず介入されるという信仰を持つべきであった。しかし、彼女にはそれができなかった。このままではエサウに族長の祝福が与えられるとの危機感を覚えたため、人間的な工夫を施してしまった。それが、自分で子やぎの料理(鹿肉の味がする料理)を作って、ヤコブに運ばせるというものであった。
信仰の欠如という問題は、リベカだけの問題ではない。(1)アブラハムの罪を思い出そう。12 章で、彼はききんを避けるためにエジプトに下り、そこで、自分の妻を妹だと偽った。(2)サラの罪を思い出そう。16 章で、彼女は「約束の子」の誕生が待ち切れず、女奴隷のハガルを夫に与えてしまった。
信仰の欠如は、私たちの問題でもある。神の時に、神の方法で、神の計画を進めなければ、永続性のある祝福は与えられない。自らの人生のタイムマネジメントを神に委ねようではないか。神の時を読むことのできる人は、ストレスなく神に従うことができる。最近の自らの歩みを吟味してみよう。
きょうの祈り
アブラハム、イサク、ヤコブの神よ。私もまた、あなたの時を待てないという弱点を持っています。どうか、信仰によって歩むことができますように、私を励ましてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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