9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
神はアダムに対して、「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけた。神はアダムと女がどこに隠れているかを知っておられるので、この質問は場所ではなく、隠れている理由を問うたものである(創4:9、16:8参照)。アダムは、今まで経験したことのない「神への恐れ」を感じたと答えている。「私は裸なので、恐れて、隠れました」。いちじくの葉で腰をおおったわけだから、アダムは裸ではないはずである。しかし彼は、霊的には自分は神の前に裸であるという認識を持った。
「裸であるのを、だれがあなたに教えたのか」。この質問は、裸であるという認識に至った理由を聞いているのである。これに対しては、アダムからの答えはなかった。また、答えることが期待されている質問でもなかった。
「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」。これは、アダムを罪に定めるためのものではなく、彼を罪の告白に導くための質問である。それに対してアダムはこう答えた。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」。アダムは、間接的に神の責任を問うた。また、間接的にエバを責めた。ここには、犯罪者が被害者に変わるという図式がある。罪がアダムの性質を瞬時に腐敗させたことが、ここから分かる。「私は食べた」という認罪の言葉が文章の最後に来ている。自分の責任を過小評価するのは、罪人の性質である。
次に神は、女に直接問いかけた。すると女は、蛇に責任をかぶせた。彼女は、自分が蛇にだまされたことを認めている。「あなたが置いた蛇が誘惑した」とか、「あなたが造った男は止めなかった」とかは、言わなかった。そこに多少の救いはあるが、彼女の認罪もまた、文の最後に来ている。
アダムは女を責め、女は蛇を責めた。責任転嫁は、罪人の基本的な特徴である。しかし神は、人の心の中にあるものをすべてご存じで、人に罪の責任を問われる。自分の内側にもアダムの性質があることを認め、主の前に自らの罪を告白しようではないか。主は私たちの罪を赦すために、「あなたはどこにいますか」と呼びかけておられる。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。言い逃れではなく、真実の言葉をもってあなたに祈らせてください。私はここにおります。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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エズラ記3~4、ペテロの手紙 第二3
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