33 カペナウムに着いた。イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」
34 彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。
35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
36 それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。
37 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
カペナウムに着いた時、イエスは弟子たちに、道で何を論じ合っていたのかと問います。弟子たちは黙っていました。言いにくかったからです。彼らが論じていたのは、だれが一番偉いかということでした。なぜこのような議論が出てきたのでしょうか。(1)12使徒の中で、特権にあずかる者とそうでない者とが出てきました。変貌山に登ることができたのは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人だけでした。(2)弟子たちは、イエスの受難の予告を聞いた後も、イエスを王とするメシヤ的王国がすぐにでも実現すると思い込んでいたようです。その王国で、だれがどの地位に就くのかが気になったのでしょう。
弟子たちは、イエスが十字架の道を歩もうとしておられたことには気づかずに、非常に世俗的なことに関心を持ち続けていました。私たちにもそのような誤りがないかどうか、自己吟味をしてみましょう。
(1)イエスは、人の先に立ちたいと思うなら、みなに仕える人となりなさいと諭します。逆説的な教えですが、これこそ神の国の価値観です。神の国に入るための条件は、父なる神に対する信頼です。自分の努力や功績に頼ろうとする人は、そこに入る資格はありません。神の国に入る条件そのものが謙遜になるということですから、そこで一番偉いのは、当然、自分を低くし、他者に仕える者ということになります。(2)イエスは小さい子供を呼び寄せ、その子を弟子たちの真ん中に立たせて、「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」と言われました。父なる神の恵みを味わった人は、無価値に見える子供も受け入れるようになります。そのような子供のひとりを受け入れることは、イエス自身を受け入れることでもあります。
祝福されている時は、謙遜になることを学びましょう。試練の時は、父なる神に受け入れられていることと、プライドが砕かれたことを喜びましょう。
きょうの祈り
天の父なる神さま。神の国の価値観と、この世の価値観とは異なります。どうか、神の国の価値観を身につけることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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