1 イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
4 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
ルカの福音書4:16~31には、公生涯に入ったイエスが故郷のナザレを訪問し、そこで宣教されたことが記されています。安息日に会堂に入ったイエスは、預言者イザヤの書を朗読し、こう言われました。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」。これは、イエスのメシア宣言なのですが、ナザレの人々はそれを受け入れませんでした。
きょうの箇所で、イエスは再度、ナザレの人々に信じる機会を与えておられます。自分の故郷を見捨てるのが忍びなかったのでしょう。ナザレの村は、イスラエル全体の霊的状態を示すリトマス試験紙のような役割を果たしています。ナザレの人々は最終的にイエスを拒否します。それは同時に、イスラエル全体がイエスを拒否することの暗示ともなっています。ヨハネの福音書1:11にはこのようにあります。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」。
では、ナザレの人々の何が問題だったのでしょうか。(1)彼らは、イエスには知恵があることと、奇跡を行なう力があることとを認めていました。(2)彼らにとって不幸だったのは、イエスという存在があまりにも近かったということです。人々は、互いにこのように言い交わしています。「この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか」。(3)イエスは深く嘆き、あの有名なことばをお語りになりました。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです」。(4)イエスは嘆いただけでなく、同時に驚いておられます。かつて異邦人である百人隊長の信仰に驚かれたイエスが(マタイ8:10)、ここでは、ナザレの人々の不信仰に驚かれたのです。そのため、ナザレでは少数の病人に手を置いて癒されただけで、それ以上の力ある業を行なうことはありませんでした。
不信仰は神の力を制限します。イエスはあなたの信仰に驚いておられますか、それとも、不信仰に驚いておられますか。ナザレの人々の失敗から、教訓を学びましょう。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。主イエスは私の友であると同時に、主であり、礼拝すべきお方です。きょうも、主イエスに信頼して歩みます。あなたのご栄光を表わしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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