1 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。
2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。
5 父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。
9〜11章の扱いは、神学者によって異なります。① 省略する。これは、置換神学の立場に立つ神学者です。彼らは、教会は新しいイスラエルであると考えます。② 軽視する。その場合の論理は、「これは挿入句的なものであって、主要な議論ではない」というものです。③ 重視する。神が3章も使って啓示しておられる内容が軽いものであるはずがない、というのがこの立場です。私たちは③ が正しいと信じています。
先に進む前に、1〜8章の復習をしてみましょう。(1)序言(手紙の紹介)1:1〜17。そこには、パウロの自己紹介があり、また、「福音は、まずユダヤ人に、そして異邦人に」という原則が書かれていました。(2)義認(過去形の救い)1:18〜5:21。そこには、すべての人は神の義から外れていることと、義とされるのは信仰と恵みによるということが記されていました。(3)聖化(現在進行形の救い)6:1〜8:18。そこには、聖化もまた信仰により恵みによるということと、聖化は聖霊の業であることが書かれていました。(4)栄化(未来形の救い)8:19〜39。そこには、摂理は私たちを聖化へ導くと記されていました。
1 〜 8章で救いの教理が終わりましたので、本来ならば、「神の義の適用」(12 〜15章)に進んでもいいはずです。パウロ書簡の特徴は、まず教理についての教えがあり、次に実践の勧め(真理の適用)が続くことです。しかしロマ書では、パウロはすぐに適用に入ることをしないで、当然の疑問に答えようとしています。それは、「イスラエル人に対する神の愛はどうなったのか」という疑問です。9〜11章は、「イスラエル人に関する神の義」の弁護です。
神が約束されたことは必ず成就します。もしイスラエルが見捨てられたとするなら、イスラエルに対する神の約束は破棄されたことになります。もしそうなら、イエス・キリストにある私たちの救いも、途中で破棄される可能性があります。しかし聖書は、信じた者に与えられる神の愛と救いは永遠であることを教えています。「…どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(8:39)。イスラエルの救いは、私たちの救いの確かさと連動しています。私たちの救いの確かさは、神の忠実さから来ることを思い、御名をたたえましょう。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。あなたの約束は100%成就します。きょうもあなたの愛の中に安らぐことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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