10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
きょうはローマ8:10をじっくりと学んでみます。「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています」。この聖句は、信者にすでに起こったことについて解説しています。(1)「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら」とは、信者の今の状態を示しています。キリストを救い主として受け入れた瞬間から、信者の内にはキリストが内住されます。(2)「からだは罪のゆえに死んでいても」とは、私たちの肉体が滅びつつあることを示しています。アダムの罪によって死がこの世に入りました。私たちもまた、罪(アダムから継承した原罪)のゆえに肉体的には死にます。信者にも死がやって来る理由は、その内に原罪を宿しているからです。(3)「霊が、義のゆえに生きています」とは、義認のゆえに、信者の霊が生きていることを示しています。すでに学んだように、義認とは、神の怒りから解放され、神との平和が与えられることです。信者の霊は、今はすでに生かされて、神との交わりを楽しんでいます。
これまでに、「神の御霊」、「御霊」、「キリストの御霊」という言葉が出てきました(9節)。そして10節では、「キリストがあなたがたのうちにおられるなら」という表現が出ています。当然の疑問は、聖霊の内住と同じように、キリストもまた内住されるのだろうかということです。答えは、「そのとおり」です。パウロは、ガラテヤ2:20で、この真理をこう表現しています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」。聖霊もキリストもともに、信者の内に住まわれます。では、内住の聖霊と内住のキリストとは同じなのでしょうか。そうではありません。聖霊とキリストとは、区別可能です。と同時に、分離不可能です。なぜなら、同質の神としての性質を持っておられるからです。区別可能であるが分離不可能ということの中に、三位一体の教理が暗示されています。
古い自分は十字架につけられ、今はキリストが自分の内に生きておられることを認めましょう。それが、神の御子を信じる信仰によって生きるということです。
きょうの祈り
天の父なる神さま。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」という言葉を感謝します。きょうも信仰によって歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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