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ローマ人への手紙3:27 〜 31

27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。

30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。

31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。

義認と律法の調和(2)

救いの道は一つ

今、パウロは、「義認」について論じています(1:18 〜 5:21)。きょうの箇所でパウロは、2つのことを論じています。 義認と律法の関係、そして、 義認と律法の調和、がそれです。つまり、信仰義認が真理であるとするなら、律法はどうなるのか、という問題です。きょうはこの箇所の2回目の学びです。
信仰義認は、全ての人に適用される原理です。(1)「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(28節)。「人が」とあり、ユダヤ人という言葉も、異邦人という言葉もありません。つまり、すべての人に同じ原理(信仰義認)が適用されるのです。(2)「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です」(29節)。ユダヤ人は、神は自分たちだけの神だと考えてきました。しかし、神は異邦人にとっての神でもあります(アブラハム契約の中には、異邦人の救いが含まれています。また、ローマ11章には、オリーブの木の神学が展開されています)。(3)「神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです」(30節)。「割礼のある者」とはユダヤ人のことであり、「割礼のない者」とは、異邦人のことです。ユダヤ人の救いの方法と、異邦人の救いの方法は異なるとの主張(二契約神学)は、間違っています。

信仰は律法を無効にするのか

では、律法はむだだったのでしょうか。「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです」(31節)。「信仰は律法を無効にするのか」という問いに対して、パウロは強く否定します。信仰は、律法の否定ではなく、律法の確立であるというのです。その説明が、ローマ4:1 〜 25(アブラハムの例)でなされます。そこでの論理展開を簡単に要約すると、次のようになります。 律法により罪が示される。 信仰義認の道しかないことが分かり、福音を信じるようになる。 その結果、聖霊の内住が与えられる。 聖霊の力によって、律法の要求を満たすようになる。
聖書信仰に立つ者は、「信仰により、恵みによって救われる」という確信に立ち続ける必要があります。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。罪人の私が救われる方法は、イエス・キリストの福音を信じる信仰しかありません。私を救ってくださり感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

エステル記5~6、ヤコブの手紙5