21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
今私たちは、「なだめの供え物」という言葉を通して、義認を別の角度から論じています。今回は、「なだめの供え物」が必要な理由について考えます。1:18にはこうありました。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」。(1)神は罪に対して怒っておられます。そして、神の怒りは、神の愛の一部です。(2)裁きを免れるためには、罪に対する神の怒りを静める必要があります。そのために必要なのが、「なだめの供え物」です。この言葉は、ギリシア語では「ヒラステイリオン」です。これは新約聖書に2回しか出てきません(ロマ3:25とヘブ9:5)。
ヘブル9:5にはこうあります。「また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません」。この聖句では、「ヒラステイリオン」は「贖罪蓋」と訳されています。それは、幕屋の至聖所に安置された契約の箱の蓋のことです。英語で「the mercy seat」と言います。つまり、「なだめの供え物」=「贖罪蓋」なのです。この聖句の背景にあるのは、贖罪の日の儀式です(レビ16:7 〜 10、15参照)。大祭司アロンは、年に一度、贖罪の日に、やぎの血を持って至聖所に入り、それを「贖いのふた」の上と「贖いのふた」の前とに振りかけました。この血は「なだめの供え物」であり、キリストの血の予表です。
贖罪の日には、2頭のやぎが取られ、1頭はほふられ、他の1頭は野に放たれました。(1)ほふられたやぎは、キリストを予表しています。キリストは、私たちの代理人として、神の怒りを受けてくださいました。それが十字架上の死の意味です。(2)野に放たれたやぎは、私たちを予表しています。キリストの死は、私たちの身代わりとしての死でした。それによって、私たちは解放されました。つまり、神の怒りはキリストの上に注がれ、その結果、キリストを信じる者が神の怒りから解放されたということです。
今や、神は怒ってはおられません。神の怒りは、キリストの死によって静められたからです。キリストを信じる者は、神の怒りから解放されました。しかし、キリストを信じないままで死ぬ人は、神の怒りを受けます。この事実を認識することは、伝道の意欲につながります。
きょうの祈り
天の父なる神さま。キリストを信じる者は、神の怒りから解放されました。そのことのゆえに、感謝します。と同時に、まだ救われていない多くの人たちのことを思います。どうか私を、福音の使者としてお用いください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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