9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」
13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
15 「彼らの足は血を流すのに速く、
16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
17 また、彼らは平和の道を知らない。」
18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
パウロは、1:18〜 3:20までで「有罪宣言」について論じてきました。「義認」を説く前に、全人類が罪人であることを証明する必要があったからです。次回から「義認」の教理に入りますが、その前にもう一度、救いの必要性について確認しておきます。
9節にはこうありました。「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです」。(1)「すべての人が罪の下にある」とは、罪の支配下にあるという意味です。つまり、罪人とは罪の支配下にある人なのです。(2)この聖句には、罪の擬人化があります。つまり、罪という目に見えない実体が擬人化して語られているのです。(3)イエス時代のユダヤ教の主要テーマに、「2人の主人についての教え」がありました。その内容は、「人には2人の主人がいる。それは、神と罪である。そのどちらの主人に仕えるかによって、その人の生き方が決まってくる」というものです。この考え方は、福音書の中にも出てきます。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(マタ6:24)。
罪人は罪という主人に仕え、その支配下にあります。6:23を見てみましょう。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」。(1)罪という主人に仕える者は、その主人から報酬(給与)を受け取ります。その報酬とは、「死」です。(2)しかし、神に仕える者は、イエス・キリストにある「永遠のいのち」を贈り物として受けます。両者の対比は、鮮明です。
罪人は、罪の赦しだけではなく、罪の力(支配)からの解放も必要としています。罪の赦しは、義認によって与えられます。また、罪の力からの解放は、聖化によって実現します。神は、すべての人が罪の支配から解放され、ご自身との交わりに入ることを願っておられます。その神の招きに応答する人は、幸いです。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。私の罪を赦し、私を罪の支配から解放してくださることを感謝します。ますますあなたに近づくことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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