1 イスラエル人の全会衆は、【主】の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
出エジプト記のここまでの文脈を確認してみよう。葦の海を渡ったイスラエルの民は、荒野の旅を開始した。荒野は、神がご自身の民を訓練する学校でもある。人生の荒野に遭遇した時、それを霊的訓練として受け取れる人は幸いである。
ここまでの行程を振り返ると、①マラでの体験、②エリムでの体験、③シンの荒野での体験などがあった。そしてこの箇所から、レフィディムでの体験が始まる。出エジプト17 〜 18 章がそれに該当する。レフィディムでは、3 つの出来事が起こる。①メリバの水事件、②アマレクとの戦い、そして、③イテロの助言。これから見るのは、①メリバの水事件である。これもまた、【主】からの訓練である。
「【主】の命により」とあり、さらに「旅を重ねて」とある。その表現から、イスラエルの民の旅の様子が見えて来る。(1)彼らは、「【主】の命により」移動したのである。この文脈では、雲(シャカイナグローリー)が動けば旅立ち、止まれば停止したということである。この原則は、私たちの人生にも適用される。聖霊の導きによって歩んでいる人は、幸いである。(2)「旅を重ねて」とあるが、これは、旅がゆっくりと進んだことを示している。移動する一団には、多くの人々と大量の家畜がいた。当然、歩みはゆっくりとしたものになる。彼らは距離を区切って、少しずつ移動した。次の宿営地であるレフィディムに来るまでは、同じ場所に長期滞在することはなかった。(3)日々の歩みに関しては、詳しい記録はない。特筆すべき重要事項がなかったからである。私たちの人生の旅も、日々の歩みはごく平凡なもの、同じことの繰り返しである。しかし、日々の歩みを積み重ねていくと、やがて重要な局面に遭遇するようになる。それが、私たちにとってのレフィディムである。(4)レフィディムに着くと、今までよりもさらに深刻な状況が訪れた。「そこには民の飲む水がなかった」とある。【主】は、新しい試練を与えることによって、民の信仰を訓練しようとされた。
私たちの人生もこれと同じで、日々の歩みの積み重ねの中で、レフィディムに至る。そこは、私たちの信仰を試し、訓練する場である。神の許しなしには何も起こらないことを覚えよう。試練は私たちの信仰を上に引き上げるための神の方法であることを思い起こそう。人間の目から見た試練は、神の目から見たチャンスである。
きょうの祈り
イスラエルの神よ。水のない地に立ち至った時、どうかあなたを見上げることを学ばせてください。信仰の弱い私をお助けください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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