1 ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。
2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。
3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは【主】の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」
ここまでの文脈を確認してみよう。エジプトを出たイスラエルの民は、紅海を渡った。そこから、荒野の旅が始まった。マラとエリムを通過した民は、シンの荒野に入った。荒野の旅は、【主】がご自身の民を訓練する学校でもある。
(1)「第二の月の十五日」とある。つまり、民がエジプトを出てから1 か月が経過した。持参して来た食物(種なしパン)も、そろそろ尽きて来る。(2)シンの荒野は、エリムとシナイの間(エリムから約30 キロ)に位置する。(3)その場所で、民はつぶやいた。「全会衆」とある。もちろん、ヨシュアとカレブのような例外もあったであろうが、民のほとんどがつぶやいたのである。(4)マラでの水不足の時は、民はモーセに向かってつぶやいたが、ここでは「モーセとアロン」に向かってつぶやいている。つぶやきの度合いが強くなり、それが習慣化しつつあるのが分かる。
つぶやきの内容は次回学ぶことにして、ここでは、つぶやきの原因を考えてみよう。(1)混じって来た人たちがいた。つまり、異邦人の奴隷たちが一緒にエジプトを出て来た。目的意識が異なる者たちと共に歩むのは、難しいことである。(2)神の啓示を理解していない人たちがいた。つぶやいた者たちは、神の意図を理解していない人たちである。自分たちがなぜ荒野を旅しているのか、どこに向かっているのか、などを理解していないので、目先のことにしか目が向かない。(3)奴隷生活の苦しさを忘れていた。彼らは、奴隷生活の苦しさを忘れ、感謝の心をなくしていた。感謝の心がなくなると、何事についても不満を覚えるようになる。(4)信仰がなかった。結局は、信仰がないことが最大の問題であった。信仰とは、現状に感謝し、将来さらに良いことが起こると期待する心である。イスラエルの民には、将来に対する期待感がなかった。苦しかったはずの過去を美化し、現状に不満を抱くのは、不信仰の心である。
今、つぶやきが習慣化していないかどうか、自らの心を吟味してみよう。もし習慣化しているなら、その原因がどこにあるのか、【主】から教えていただこう。神の計画の全貌を理解し、自らの生活をその中に位置づけられる人は幸いである。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(1 テサ5:16 〜18)
きょうの祈り
天の父なる神さま。つぶやきに代えて、感謝の心を私に与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
士師記5~6、箴言17
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