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出エジプト記15:23 〜 25

23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。

24 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言った。

25 モーセは【主】に叫んだ。すると、【主】は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めをさずけ、その所で彼をこころみられた。

マラでの体験

喜びの後の試練と落胆

3 日間飲み水を見つけられなかったイスラエルの民は、ついに水のある場所に来た。しかし、その喜びは落胆に変わった。なぜなら、その場所の水は苦くて飲むことができなかったからである(塩分や鉱物の含有量がんゆうりょうが多い水だった)。それで、そこは「マラ」と呼ばれた。マラとは「苦い」という意味である。
落胆した彼らは、いつものようにモーセに対してつぶやいた。わずか3 日前には喜び踊った民が、態度を変化させたのである。彼らは、紅海の奇跡から教訓を学んだはずなのに、それが身に付いていなかった。悲しいことである。私たちの場合はどうか。神の恵みと力を体験しながら、すぐに記憶喪失そうしつに陥るようなことはないだろうか。習慣的なつぶやきは、せっかくの祝福を失い、裁きを招くことになる。イスラエルの民の失敗から教訓を学ぼう。「苦い水」に直面したなら、祈って静まり、神の御業を待とうではないか。

モーセの祈り

モーセは、大牧者である【主】の下で働く小牧者である。彼は、みずからの役割をよく知っていた。真の小牧者は、自分が大牧者になろうとはしない。真の小牧者は、自分も羊の一員であることを認識している。真の小牧者は、羊の必要を満たすために、【主】に祈る。
モーセは、【主】に叫んだ。すると、【主】からの答えがあった。【主】は彼に1 本の木を示された。それがどういう木であるかは分からないが、モーセがそれを水に投げ入れると、水は浄化された。その木にいやしの力があったのではなく、モーセの信仰が超自然的な神の力を引き出したのである。これと似たようなことが、旧約聖書に記されている。民数記21:9(青銅のへびによる癒し)と、列王記第二2:19 〜22(塩によるエリコの水源の癒し)がそれである。
この奇跡によって、イスラエルの民は、【主】が自分たちの必要を満たしてくださるお方であることを学んだ。荒野の旅では、【主】以外に信頼できるお方はいない。人生の荒野を旅する私たちの場合も、これと同じことが言える。試練の中でも、神に信頼し続けることを学ぼう。時が来れば必ず、高い所(安全な場所)に立つことができる。

きょうの祈り

天の父よ。きょうもあなたの守りの御手を体験することができますように、私をお導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

ヨシュア記23~24、ルカの福音書9