21 【 主】はモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行え。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。
22 そのとき、あなたはパロに言わなければならない。【主】はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。
23 そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』」
神は、モーセが失望しないように、どのような事が起こるかを予告された。① エジプトに帰ったら、パロの前で神から与えられた不思議を行えという命令。②神はパロの心をかたくなにするので、彼は民を去らせないだろうという預言。③パロに警告の言葉を語れという命令。
「イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。…わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す」(1)この箇所から教訓を学ぼう。神は、イスラエルの民を「わたしの初子」と呼ばれた。古代世界では、初子は長子の権利を持つ者として大切にされた。家族の名も財産も、長子を通して後代に伝えられたからである。(2)神は「初子」という言葉を用いて、ご自身とイスラエルの民の関係を説明された。神とイスラエルの民は、特別な関係にあった。その関係とは、アブラハム契約に基づく親子関係である。神は、族長たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)と結んだ契約のゆえに、その子孫であるイスラエルの民を特別に扱われるのである。神は、イスラエルの民を通して全人類を救うという計画を持っておられる。(3)神の初子であるイスラエルを苦しめる者は、自らの初子を殺されることになる。殺されるのは、パロの初子だけではなく、パロに属する者の初子のすべてである。
私たちクリスチャンは、「神の子」と呼ばれるようになった。私たちは、新しい契約に基づいて神との親子関係に入った(1 ヨハ3:1 ~2、ロマ8:14 ~17 参照)。神は私たちを愛し、私たちを通してご自身の栄光を現そうとしておられる。神の愛に応答するような生活を志そう。
以上の予告は、モーセを解放者として整えるためのものであった。神の思いと人間の思いとはかけ離れている。私たちは、自分の願いどおりにならないと失望したり、神を疑ったりする。しかし、神に仕えようと願う者は、献身に伴う犠牲を計算すべきである。神の命令どおりに事を行っても、予想したような結果が出ないことがある。旧約聖書の預言者たちの奉仕は、ほとんどがそのパターンであった。ここには、私たちへの教訓がある。神が私たちに期待しておられるのは、「成功」ではなく「忠実さ」である。私たちは、「福音を伝え、結果は神に委ねる」という原則を学ぶ必要がある。私たちの思いどおりにならない時でも、神の計画は前進している。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。奉仕に伴う犠牲を計算し、あなたにお従いすることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
出エジプト記31 ~ 32、ヨハネの福音書13
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