36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
前回の箇所では、「荒らす憎むべき者」(24:15)の出現から3 年半後に、主の再臨があると解説した。今回の箇所は、それとは別のテーマを取り扱っている。「ただし」という接続詞は、ギリシア語では「ペリ・デ」である。これは、別のテーマに移る際に用いる言葉である。ここで扱われているテーマは、メシアの再臨ではなく、携挙である(ルカ21:34 ~36 参照)。
携挙に関して、イエスは次のように語られた。(1)それがいつ起こるかに関しては、天使にも、イエスにも分からない。父なる神だけがご存じである。ということは、人間には絶対に分からないということである。私たちに啓示されているのは、携挙は大患難時代の前のある時点で起こるということだけである。携挙の時を予測するのは、全く非聖書的なことである。(2)携挙の前には、何のしるしも与えられない。つまり、人々が普段どおりの生活をしている時に、突然、携挙が起こるということである。(3)これと似たようなことが、ノアの時代に起こった。人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、嫁いだりしていた。これらのことは、悪いことではなく日常生活の一部である。そのような時に、大洪水がその時代の人々を襲ったのである。
携挙が起こると、ひとりは取られ、ひとりは残されるといった状況が訪れる。携挙の特徴は、人々が二分されることである。取られるとは、天に挙げられるということである。取られるのは信者であり、残されるのは未信者である。残された人には、7 年間の大患難時代がやって来る。そのため主イエスは、「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです」と言われた。「目をさましている」とは、主を迎える準備が常にできているという意味である。ルカ21:36 には、「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい」とある。
主を迎える準備ができている人とは、どういう人なのか。それは、主イエスを救い主として信じ、信仰によって義とされている人、神の前に立つ用意ができている人のことである。イエスを信じていない人は、まだ準備ができていない人、目を閉じている人である。神の前に立つ準備ができていない人のために、とりなしの祈りを捧げようではないか。神が彼らの心を開いて下さるように祈ろう。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。信仰によって、主イエスを迎える準備ができていますから感謝します。どうか、日々生ける信仰を持ち続けることができますように、私を励ましてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
歴代誌 第二5~6、ヨハネの黙示録11
ハーベスト・タイムによる無料の聖書講解動画(音声)サイト。
最新のメッセージ
毎朝6時にきょうの【クレイ】が
あなたのLINEに届きます!
» 登録はこちら