13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」
15 そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。
この箇所でのイエスの教えは、弟子たちが子どもたちをしかったことがきっかけで語られたものである。イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがイエスのもとに連れて来られた。それを見た弟子たちは、子どもたちと彼らを連れて来た人々をしかりつけた。どうしてだろうか。「主イエスは偉大な教師だから、子どものために割く時間はない。そんなつまらないことよりも、もっと重要なことをしていただかねばならない」。弟子たちはそのように判断したのであろう。それを見たイエスは、憤りを覚え、逆に弟子たちを叱責された(マコ10:14 参照)。イエスが、いかに弱き者や小さき者を愛されたかを学ぶことにしよう。
イエスはすでに、子どもたちを視聴覚教育の教材として用いて、弟子たちに、天の御国で評価される資質とは何かを教えておられる(マタ18:1 ~5)。この箇所では、天の御国に入るための条件とはなんであるかが語られる。イエスは、「子どもたちをわたしのところに来させなさい」と命じ、「天の御国はこのような者たちの国である」と明言された。私たちは忘れやすい者である。知っている真理でも、くり返し学ぶ必要がある。この箇所から、以下のような教訓を学ぶことができる。
(1)神の尺度と人間の尺度とは異なる。神は、無価値と思えるような者たちを愛し、彼らに天の御国を与えてくださる。今、人間的な尺度だけで他の人たちを評価していなかったかどうか、自己吟味をしてみよう。神の目を通して、隣人を見ることを学ぼうではないか。
(2)天の御国に入るための条件は、たった一つである。神に対して、子どものような信頼を持つことである。彼らは小さき者であり、自分が無力であることを知っている。彼らが生きる道は、両親に信頼することしかない。神は、私たちがそのような信頼を神に対して持つことを望んでおられる。信仰がなければ、神を喜ばせることはできない。
複雑な思索と、幼子の信頼とは、同じ人物の中に宿ることが可能である。そのような人こそ、霊的に成熟した人である。霊的成熟を目指して、前進しようではないか。
きょうの祈り
天の父よ。私に幼子のような信仰を与えてくださり感謝します。私は信仰により、恵みによって神の子とされました。ありがとうございます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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