15 そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください。」
16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
17 口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。
18 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
20 これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」
すでに書いたように、ユダヤ人たちがイエスのメシア性を拒否して以降(マタイ12 章以降)、イエスはたとえ話を多用するようになった。そのころのイエスの教えには、一定のパターンが見られる。(1)イエスがたとえ話で民衆に教える。(2)しかし、その教えは民衆には難しすぎて理解できない。(3)民衆だけでなく、弟子たちもそれを理解することができない。(4)そこで弟子たちは、イエスにたとえ話の解き明かしを求める。その場合、ペテロがスポークスマン役を務めることが多かった。(5)イエスは、弟子たちの求めに応じて、たとえ話の解き明かしをする。
以上が一定のパターンであるが、この箇所でも同じパターンが現れている。この文脈の中では、イエスは3 つのたとえを語られたが、弟子たちにはその意味が理解できなかった。そこでペテロが弟子集団を代表して、「私たちに、そのたとえを説明してください」と願った。
イエスは、「あなたがたも、まだわからないのですか」と驚かれた。そして、こう説明された。「口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません」。イエスの結論は、人を汚すものは心から出るのであって、食物を通して口から入るのではないということである。律法主義の限界は、人の汚れを外からの悪影響の結果と見ている点にある。イエスは、人間の罪や汚れの原因は、心の中にあることを見抜いておられた。イエスは、人間の本質を深く理解しておられたのである。
興味深いのは、スポークスマン役を果たしたペテロが、これと同じ教訓を、使徒の働き10 章の「汚れた動物の幻」によって、再び学ばされていることである。その箇所では、「神は、ユダヤ人であっても異邦人であっても、偏った見方をされる方ではない」という真理が啓示されている。外側が問題なのではなく、内側こそ問題である。罪人の心の中には、悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりなどが宿っている。内側の清めは、聖霊による新生によってしか実現しない。新生体験の後も、日々聖霊によって清めていただく必要がある。新生も聖化も、すべて聖霊の御業であることを覚え、聖霊の導きに応答する歩みをしようではないか。
きょうの祈り
天の父よ。今聖霊によって、私の内側の汚れをきよめ、あなたの子としてふさわしい姿に変えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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ヨブ記36〜37、ヘブル人への手紙5
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