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マタイの福音書12:9 ~ 13

9 イエスはそこを去って、会堂に入られた。

10 そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。

11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。

12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」

13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。

肉体の癒し

パリサイ人たちの策略

安息日にイエスが会堂に入ると、そこに片手のなえた人がいた。この状況は、イエスを陥れるためにパリサイ人たちが仕組んだ策略さくりゃくである。(1)パリサイ的律法(口伝律法、あるいはミシュナ法)によると、安息日に病人を癒すことは禁じられていた(ただし、病人の生命が危険にさらされている場合は、助けてもよいとされていたが、片手のなえた人はそれに該当がいとうしない)。(2)彼らは、イエスがその人を癒すかどうかを観察し、もし癒すなら、律法違反でイエスを告発しようとしていたのである。

イエスの回答

イエスは、ここでも知恵のある答え方をされた。(1)「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか」。これは、口伝律法が許可していた内容である。つまり、安息日であっても、穴に落ちた羊を引き上げることは許可されていたのである。(2)次にイエスは、人間と羊を比較された。これは、当時のラビたちがよく用いた教授法のひとつ(小から大への論証)である。つまり、価値の低い方(羊)がこれほど大切にされるなら、はるかに値打ちのある方(人間)は、それ以上に大切にされるべきだという議論である。(3)結論的には、安息日に良いことをするのは、正しいということになる。その正しいことをイエスは実行し、片手のなえた人を癒された。公生涯のこの時期に行われた癒しは、イエスのメシア性を証明するためのものである。それゆえ、癒しを受ける側の信仰は要求されていない。
癒しを目撃したパリサイ人たちは、どのように反応したか。彼らは、イエスがメシアであることを認めなかったばかりか、逆に、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談を始めた。イエスがパリサイ的権威を否定したことで、彼らの怒りに火がついたのである。彼らの姿から、教訓を学ぼう。前回学んだように、神は「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」と言われる。愛こそ、律法の目的であり、律法を超えるものである。それゆえ、私たちは、愛をクリスチャン生活のゴールにえる必要がある。主イエスの行為は、信仰のゴールとは何かを私たちに思い出させてくれる。「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」(1 ペテ4:8)。「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」(コロ3:14)

きょうの祈り

天の父よ。あなたは愛なるお方です。どうかあなたに似た者と変えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

ミカ書3〜4、テサロニケ人への手紙 第二2