25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
コラジン、ベツサイダ、カペナウムは、なぜ不信仰に陥ったのか。彼らは、イエスの教えが単純であることにつまずいたのである。私たちに関しては、それが単純だからといって、つまずいてはならない。真理は、往々にして単純なものである。(1)賢い者や知恵ある者は、自分の知識や判断力を誇り、神のことばに心を閉ざしてしまいがちである。3 つの町の住民たちは、その賢さのゆえに、霊的暗黒に留まり続けた。彼らの上に、メシアがもたらした光が輝くことはなかった。(2)それに対して、幼子と呼ばれる人々(この世で見下されている人、貧しい人、謙遜な人など)は、自らの弱さを知るがゆえに、心を開いて神に信頼しようとする。そのような人々の上には、メシアの光が輝くのである。(3)霊的真理は、人間の常識によって把握されるものではない。それは、神から示されなければ理解することのできないものである。神は、霊的真理を高ぶる者にではなく、幼子のように単純に信頼する者に啓示してくださる。それが神の方法である(1 コリ1:18 以下)。(4)イエスは神の子である。イエスが父を知らせてくださらなければ、私たちは父なる神を知ることができないのである。
イエスは、すべての人を招いておられる。(1)「疲れた人、重荷を負っている人」とは、第一義的には、パリサイ人たちが教える律法主義のユダヤ教(ミシュナ的ユダヤ教)の重荷を負わされ、疲れている人のことである。(2)イエスは、「わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われ、人々に安息を約束された。これはまさに、神である方から発せられた安息への招待状である。(3)イエスは、「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」と言われた。「わたしのくびきを負う」とは、「わたしの学校に来なさい」という意味である。当時のラビたちは、この表現をよく使っていた。真の安息とは、活動の停止ではなく、積極的な活動と関係したものである。主イエスに従うことが、魂の安らぎを得る最善の方法である。
この招待状は、重荷に苦しむすべての人に差し出されている。もし、律法主義的な信仰に捕われているなら、イエスの学校に入学し、恵みによって生かされる生活について学ぼうではないか。イエスの内に留まるなら、イエスの御霊(聖霊なる神)が私たちを導いてくださる。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。どうか私に、主イエスにあるたましいの安息を与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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