11 どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。
12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
13 その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。
14 もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。
15 まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。
「どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい」。これは、弟子たちが実行すべき伝道の戦略である。(1)「適当な人」とは、宿舎を提供してくれる都合のよい人、という意味ではない。これは、イエスをメシアと信じているユダヤ人のこと、つまり、「イスラエルの残れる者」(真のイスラエル)のことである。(2)真のイスラエルを見つけたなら、その町で宣教している間は、その家に留まり続ければよいということである。これは、伝道の戦略であると同時に、人間関係の原則でもある。(3)その家に入る時は、平安を祈るあいさつする。その家が「それにふさわしい家なら」、つまり、真の信仰を持っているユダヤ人の家なら、その平安はきっとその家に来る。私たちも、主にある兄弟姉妹の家を訪問する時は、大胆に、その家に平安が来るようにと祈り、あいさつを交わそうではないか。
福音のメッセージが拒否されたとき、どうするか。(1)平安を祈るあいさつを送っても、それを受け付けない家も出てくる。結局その家は、平和のあいさつにふさわしい家ではなかった。つまり、「イスラエルの残れる者」の家ではないということである。その場合は、平安の祈りは使徒たち自身に返って来る。(2)もし受け入れてくれる人がその町にいない場合、そこを出て行く時に、「足のちりを払い落とす」。それは、不信仰な者の上に下る神の裁きの「しるし」となる。メシアの使者が戸口まで来たのに、それを受け入れないのは、まさに悲劇である。(3)ここでイエスは、こう嘆いておられる。「まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです」。この箇所から、神の裁きには、罪の軽重に応じた厳しさの段階があることが分かる。
この箇所を、自分に適用してみよう。今の時代でも、福音に対するさまざまな反応がある。喜んで受け入れる人もいれば、激しく拒否する人もいる。福音を伝えたすべての人が信じてくれるなら、これほど嬉しいことはないが、現実はそうではない。しかし、伝道がうまくいかなくても落胆する必要はない。主は私たちを、福音を受け入れる人のもとへと導いてくださる。キリストにある兄弟姉妹との交流を大切にしよう。その交わりの中に留まることによって、新しい力を受けようではないか。
きょうの祈り
天の父よ。どうか私の内に、御霊の実を作り出してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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ホセア書10~11、詩篇85 ~ 86
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