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マタイの福音書6:16 ~ 18

16 断食だんじきするときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

17 しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油をり、顔を洗いなさい。

18 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。

断食について

断食の再解釈

パリサイ人たちが善行と考えていた行為が3 つある。 施し、 祈り、 断食。イエスはその3 つの行為を再解釈された。すでに、最初の2 つ(ほどこしと祈り)の再解釈は終わった。この箇所では、第3 の善行である断食が再解釈される。ここでも、イエスの論点は、人に見せるための断食か、神に喜ばれるためのそれか、という点にある。
新約聖書には、断食をせよという命令は出てこないが、自発的に断食する人はかなりいたようである。パリサイ人の場合は、週2 回の断食を習慣として行っていた(ルカ18:12)。また、バプテスマのヨハネの弟子たちも、その習慣に従っていた(マタイ9:14)。しかしイエスは、花婿はなむこ(イエスのこと)がいる今は、その習慣に従う必要がないと教えられた(マタ9:14 ~17)。イエス時代のユダヤ人たちは、安息日や祭日には断食をしていなかった。また、花婿は贖罪しょくざいの日においてさえ断食をしなくてもよいとされていた(贖罪の日は、一年のうちで最も聖なる日で、ユダヤ人全員が断食を行っていた)。
(1)断食は、あくまでも自発的なもので、強要されてするものではない。(2)もし、人に見せるために断食するなら、それは偽善となる。断食が、敬虔けいけんさを誇示こじするための手段となるなら、人からの称賛は受けられても、神からの報いは受けられない。だから、頭に油を塗り、顔を洗うように勧められているのである。(3)これらを理解した上で、神に近づくために断食するなら、それは祝福となる。

新約聖書の中の断食

(1)幼子イエスを祝福した女預言者アンナ(アセル族のパヌエルの娘)は、若くして夫を亡くし、その後やもめとして暮らし、当時84 歳になっていた。彼女は、神殿を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神につかえていた(ルカ2:36~ 38)。(2)主イエスは、公生涯を始めるに当たって、断食を実行された(マタイ4:2)。(3)アンテオケ教会が行った世界宣教も、最初は、断食と祈りから始まった(使13:2 ~3)。(4)パウロの一行は、宣教旅行の中で、新しく誕生した教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈った後、彼らを主の御手に委ねた(使14:23)。(5)使徒パウロも、断食を実行した(2 コリ6:5)。
断食に限らず、私たちのすべての行為は、隠れた所で見ておられる天の父に知られている。私たちが信仰によって行ったことは、すべて神に覚えられている。今、このことを受け取り、平安をいただこうではないか。

きょうの祈り

天の父なる神さま。私のすべての行為が、隠れた所で見ておられるあなたに喜ばれるものとなりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

エゼキエル書12~13、ガラテヤ人への手紙3

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