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創世記45:25~28

25 彼らはこうしてエジプトから上って、カナンの地に入り、彼らの父ヤコブのもとへ行った。

26 彼らは父に告げて言った。「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」しかし父はぼんやりしていた。彼らを信じることができなかったからである。

27 彼らはヨセフが話したことを残らず話して聞かせ、彼はヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見た。すると彼らの父ヤコブは元気づいた。

28 イスラエルは言った。「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」

元気を取り戻すヤコブ

息子たちの帰還

ヤコブの息子たちは、エジプトの産物を満載まんさいしたろばと雌ろば、それに多数の車と共にカナンの地に帰還した。(1)息子たちは、エジプトで起こったことをそのまま報告した。死んだと思われていたヨセフは、生きている。それどころか、エジプトの宰相になっている。(2)ヤコブは、シメオンとベニヤミンが帰還したことだけで満足したはずである。その彼に、それ以上の良き知らせがもたらされた。(3)その時のヤコブの状態については、次のように説明されている。「父はぼんやりしていた。彼らを信じることができなかったからである」(新改訳)。「父は気が遠くなった」(新共同訳)。ヤコブは気絶きぜつしたか、気絶しそうになったのであろう。彼は、ヨセフは死んだと聞かされていたが、それが生きていたのである。ヤコブは、怒りと喜びの感動が入りじった状態におちいった。
ヤコブの反応には普遍性ふへんせいがある。罪人の特徴は、悲劇や悪い知らせはすぐに信じるが、祝福や良い知らせはなかなか信じられないという点にある。

息子たちの報告

息子たちは、ヤコブが落ち着いてから、エジプトで起きたことを詳細に話した。(1)彼らは、ヨセフから聞いたことを残らず父に話して聞かせた。(2)エジプトの牛車がその証拠しょうことなった。当時のエジプトの牛車は、大変高価なものであった。カナンの地の住民にとっては、見たこともないような高嶺たかねの花である。(3)その車を見て、ヤコブは元気づいた。息子たちの言葉だけでなく、牛車を見たからである。見ずして信じるということが、いかに困難なことであるかが分かる。(4)このパラグラフでは、この時点からヤコブという名がイスラエルに変わる(28節)。彼が信仰に基づく判断をし始めたからである。彼は、「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは」と言い、「死なないうちに彼に会いに行こう」と立ち上がった。
ヤコブのこの言葉から教訓を学ぼう。彼には、死期が近づいているという認識があった。また、死ぬ前にすべきことがあるという認識もあった。死を意識し、その前に為すべきことを実行に移す人は、死への良き備えをしている人である。私たちには、牛車ではなく、十字架に付けられ、3 日目に復活された主イエスがおられる。地上で生かされている限り、私たちには使命がある。聖書を学ぶ目的は、神の計画を理解し、その計画の成就のために自らの人生を設計するためである。

きょうの祈り

天の父なる神さま。私たちのヨセフである主イエスの十字架と復活を、聖書に記されているとおりに信じます。私を幸いな者と呼んでくださり、感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

列王記第二23~24、使徒の働き28