11 こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。
12 私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。
13 もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
きょうの箇所でパウロは、本物の使徒とはどのような人なのかを論じています。その教えは、自己弁護や自己推薦ではなく、コリントの信徒たちに正しい判断力を与え、パウロこそ自分たちの使徒であることを誇りに思わせるためのものでした。(1)使徒であるかどうかは、外見(うわべ)によって判断されるものではない。外見とは、雄弁であるか、ユダヤ人であるかなどの要因のことで、偽使徒たちが誇りにしていたものです。(2)使徒であるかどうかは、外的条件によってではなく、心の中に何があるかによって判断されるべきである(ヨハネ7: 24参照)。(3)パウロの外見を見て、その使徒職を疑う人たちがいましたが、その人たちには、パウロが神を恐れ、自らの良心に恥じないように行動していたことが見えていなかったのです。
次にパウロは、自分に向けられた批判の言葉を直接引用し、それに反論しています。「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです」(13節)。(1)「パウロは気が狂っている」と噂する人たちが実際にいたのですが、彼はそれを問題にしていません。むしろ、軽いタッチでそれに答えています。クリスチャンとは、人の評価を気にしないで生きられるようになった人のことです。(2)主イエス自身が、「気が狂っている」との批判をお受けになったのですから、私たちが同じ批判に晒されるのは当然のことでしょう(マルコ3:21、ヨハネ10:20参照)。(3)パウロを突き動かしていたのは、キリストの愛です。十字架のイエスがメシヤだと知った時、パウロは霊的に生まれ変わりました。キリストの死はすべての人のための身代わりの死でした。キリストが死んだ時、すべての人が死んだのです。すべての人が今生きているのは、もはや自分のためではなく、自分のために死んで復活してくださったキリストのためなのです。
あなたはどのようなエネルギーによって伝道していますか。パウロとともに、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」と告白する人は幸いです。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。この世は、キリストに熱心に従う人を理解しません。どうか、この世の評価を気にすることなく、あなたにお仕えすることができますように、私を励ましてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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