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コリント人への手紙第二3:14~18

14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。

15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

御霊にある自由

顔にある覆い

きょうの箇所でパウロは、なぜ同胞のイスラエル人たちがイエスをメシアとして受け入れないのかを説明しています。(1)モーセは、古い契約の栄光がやがて消え去るという事実を人々の目から隠すために、顔に覆いをかぶせた。それと同じように、イスラエルの人々もまた、自分の心に覆いをかけている。(2)イスラエル人が心にかけている覆いは、「霊的な覆い」である。旧約聖書はキリストを指し示すものであるが、イスラエル人には霊的な覆いがあるためにその事実を理解できない。(3)同じ覆いが、今もユダヤ教の会堂でモーセの律法の朗読を聞く人々の心にかかっている。「今も」というのは、パウロがこの書簡を書いた時代のことです。しかし、この状況は、21世紀になった今も変わっていません。(4)イスラエルの人々は、民族としてはいまだにキリストに心を閉ざしている(これは、個人としてイエスをメシアと信じるイスラエル人がいることを否定しているものではありません)。

主は御霊

では、イスラエル人の心にかかっている覆いは、どのようにして取り除かれるのでしょうか。(1)パウロは、出エジプト記34:34を頭に描いています。そこにはこのように書かれています。「モーセが主の前にはいって行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた」(2)モーセが主(ヤハウェ)に向く時に顔の覆いをはずしたように、イスラエル人もまた、主(キリスト)に向けば、霊的覆いが取り除かれます。霊的覆いとは、律法によって救われようとする頑迷さのことです。(3)この覆いは、キリストの御霊によって取り除かれます。17節にはこうあります。「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります」この聖句は、非常に重要です。これは、聖霊の神性を教えています。また、律法に縛られないで、律法の教えを実行する秘訣を教えています。聖霊こそ、私たちを生かし、自由にしてくださるお方です。
主キリストを仰ぐ者は、顔の覆いなしに主と対面し、鏡のように主の栄光を反映させながら、主と同じ姿に変えられていきます。

きょうの祈り

天の父なる神さま。今私は、主キリストを仰ぎます。どうかキリストの栄光を鏡のように反映させる者と変えてください。私の救いの完成を待ち望みます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

伝道者の書5~6、詩篇111~112

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