20 三日目はパロの誕生日であった。それで彼は、自分のすべての家臣たちのために祝宴を張り、献酌官長と調理官長とをその家臣たちの中に呼び出した。
21 そうして、献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をパロの手にささげた。
22 しかしパロは、ヨセフが解き明かしたように、調理官長を木につるした。
23 ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。
それから3 日目は、パロの誕生日であった。パロは盛大な祝宴を張り、献酌官長と調理官長を、すべての家臣たちとともに宴席に呼び出した。その席で、ヨセフの解き明かした内容がすべて成就した。献酌官長は元の献酌の役に戻され、調理官長は木につるされた。(1)夢の解き明かしが悪くても、ヨセフにはなんの責任もない。彼はただ、神から示された真実を伝えただけである。(2)この姿勢こそ、クリスチャンが神のことばを語るときに必要なものである。パウロはこう書いている。「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう」(2コリ2:15 ~16)。
さて、良い解き明かしが成就した献酌官長は、その後どうなったのか。彼は、監獄を出るとすっかりヨセフのことを忘れてしまった。なんと恩知らずな男なのか。あれだけヨセフの世話になりながら、すっかりヨセフのことを忘れてしまったのである。人は、いったん平安を得ると、苦しみの中にいる人のことを忘れてしまうようである。私たちも、忘れ去られるような体験をすることがあるかもしれないが、落胆する必要はない。ヨセフの楽天主義を思い起こし、視点を変えて物事を見る努力をしよう。思いどおりにならなくても、神の視点からは、計画が進展していることが多いからである。献酌官長がヨセフのことを思い出さなかったのは、まだ神の時が来ていなかったからでもある。
ヨセフとイエスの類似性について考えてみよう。(1)ヨセフのそばに2 人の囚人が置かれた。イエスの十字架の両側には、2 人の囚人が釘付けにされた。(2)ヨセフは、「私を思い出してください」と言ったが、その願いは忘れ去られた。(3)囚人の1 人は、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」(ルカ23:42)と言った。それに対してイエスは、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われた。たとい人は私たちのことを忘れても、イエスは決して忘れてはおられない。きょうも、主イエスに信頼することを学ぼう。神の時を忍耐して待とうではないか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。あなたは、私の必要をすべてご存じです。きょうもあなただけに信頼を置いて歩みます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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