1 さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。
2 祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである。
3 さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。
4 ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。
5 彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。
6 ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。
過越の祭りと、種なしパンの祝いとは別のものです。しかし、両者とも同じ時期に祝われるために、同義語として用いられる場合があります。ここでは、ルカはそのように用いています。最後の晩餐が行なわれたのはいつでしょうか。共観福音書では、過越の祭りの日となっています。しかし、ヨハネの福音書によれば、その日はイエスが十字架にかかった日となっています。この矛盾をどう解決すればいいのでしょうか。当時用いられていた二つの暦(公的なものと私的なもの)に注目しましょう。公的な暦では、イエスは過越の祭りの日に十字架にかかったことになります。しかしイエスは、私的な暦に基づいて、その前夜に弟子たちと過越の食事を食したと考えられます。(この私的暦とは、死海写本で有名なクムラン教団のエッセネ派の暦であった可能性が大です。)最後の晩餐の記事には、犠牲の小羊が一度も出てきません。まだ小羊がほふられていなかったからです。小羊がないままで祝いが進められたのは、イエスご自身が過越の小羊となろうとしておられたからです。弟子たちは、その時点ではまだイエスの十字架の意味を理解していませんでした。しかしイエスは、無知で自己中心的な弟子たちをいのちがけで愛されました。今、静まって、あなたに対するイエスの愛が、どれほど大きなものであるか、黙想しましょう。
「ユダは、なぜイエスを裏切ったのか?」聖書はその理由を詳しくは述べていません。ただ、ユダが金銭欲に支配されていたことはわかります(ヨハネの福音書12:6参照)。ルカは、「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。」(3節)と書いています。「十二弟子」ということばと、「サタン」ということばは、いかにも不釣合いです。それだけに、ユダによるイエスの裏切り行為が、いかに重大な罪であるかがわかります。「イエスは、なぜユダを選んだのか?」これも神秘です。ただ言えることは、ユダはそうなるように運命づけられていたのではないということです。イエスは、ユダをも愛し、彼に悔い改めの機会を何度も与えておられます。ユダは、自分の意志でサタンに心を開き、イエスを売り渡しました。ユダの選びは確かに神秘的ですが、それと同じように神秘的なのは、「神は、どうして私のような者を選ばれたのか。」ということです。今、神の恵みに感謝し、キリストへの愛を告白しましょう。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神よ。確かに、私が選ばれたことは神秘です。それは、すべてあなたの恵みから出たことです。どうか私が、ユダのような結末を迎えることのないように、守り、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
歴代誌 第二9~10、ヨハネの黙示録13
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