11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
12 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
14 イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」
ルカの福音書5:12~16の箇所で、「らい病」という訳語は、再検討すべきであると書きました。聖書時代の「レプラ」は、皮膚病全般を指すことばで、現在のハンセン氏病とは別のものであることが確認されています。当時、レプラ患者は、一般社会からは隔離され、道を歩くときも、「汚れている。汚れている。」と叫ぶように命じられました(レビ記13:45~46参照)。まさにレプラは、肉体的、社会的、精神的苦痛をもたらす病だったのです。十人のレプラ患者が、遠く離れた所からイエスに叫びました。「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」この十人のうちの一人は、外国人(サマリヤ人)でした。普通は、ユダヤ人はサマリヤ人とは交際しなかったはずなのですが、レプラという病は、人種的な壁さえも無意味にしてしまうほどに、悲惨なものだったのです。イエスが彼らの願いに答えた方法に注目しましょう。(1)イエスは、彼らの信仰を試されました。(2)いやされる前に、すでにいやされたと信じて行動することが求められました。(3)いやしは、結果として与えられました。これは、私たちにも適用されるべき重要な真理です。あなたは、結果を見たら信じようと思っていませんか。すでに祈りは聞かれたと信じて行動すべきときが来ていませんか。
彼らは、祭司に自分を見せに行く途中でいやされました。そういう意味では、十人全員が信仰を持っていたのです。しかし、感謝の心を持っていたのは、そのうちの一人、サマリヤ人だけでした。彼は、祭司に自分を見せる前に、神に栄光を帰すためにイエスのもとに戻って来ました。イエスは、神の民であるユダヤ人が、だれ一人戻って来なかったことと、外国人であるサマリヤ人が戻って来たこととに驚かれました。イエスは彼に、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」と言われました。「直した」ということばには、肉体のいやし以上の意味が込められています。真のいやしとは、肉体とともにたましいも健全になることです。このサマリヤ人は、他の九人が味わわなかった祝福を味わいました。彼の姿を黙想しながら、私自身が、なんと感謝を表わすことの少ない者かと、悔い改めさせられました。信仰と感謝とは、車の両輪のようなものです。そのどちらが欠けても、神を喜ばせることはできません。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神よ。あなたの御前にお願い致します。どうか私を、信仰と感謝の人と変えてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
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ネヘミヤ記5~6、ヨハネの手紙 第一4
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