57 さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」
58 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
59 イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
60 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
61 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
この箇所では、三人の男がイエスの弟子候補として出てきます。最初は、「あなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」と自己推薦した男です。それ自体は悪いことではありませんが、彼には、イエスの弟子が支払うべき犠牲の大きさが理解できていませんでした。熱心さだけで、理性的な理解がなければ、途中で必ず挫折します。イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」とお答えになりました。神の子イエスが、人となるために支払われた犠牲の大きさを、垣間見る思いがします。ところで、聖書にはもうひとり、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカの福音書22:33)と語った人物が出て来ます。それは、ペテロです。ペテロは自分の弱さも、イエスの恵みの深さも、十分には理解していませんでした。しかし、大きな失敗を通してペテロは、イエスの弟子にふさわしい姿に変えられていきました。あなたは、過去の失敗で立ち上がれない状態になっていますか。イエスの赦しを受け取り、ペテロのように立ち上がりましょう。
次の二人は、イエスから招かれています。すると彼らは、こう答えました。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」両者とも、もっともな答えのように聞こえます。しかし、イエスは、お喜びになりませんでした。何が問題なのでしょうか。前者の場合、彼の父はまだ死んでいないということを理解する必要があります。この地方の慣用句で、「父を葬る」とは、死ぬまで面倒を見ることを意味します。つまりこの男は、数年経って父が死んだら考えてもいいと言っているのです。家の者にいとまごいを、というのはどうでしょうか。これも、それ自体は悪いことではないかもしれません。問題は、彼の献身に不純物が混ざっており、全きものとなっていないという点にあります。イエスは、彼に言われました。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」あなたは、最近、うしろを振り返ってはいませんでしたか。今、次のみことばを黙想しましょう。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル人への手紙12:2)。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神よ。今日は、手を鋤にかけてから、後ろを振り返るなと教えていただき感謝します。前に向かって、イエス様に向かって、完成に向かって、今日も歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
ヨブ記28〜30、ヘブル人への手紙4
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