12 さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
13 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。
14 イエスは、彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
15 しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。
16 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。
「らい病」(ギリシャ語で「レプラ」)という日本語の訳は、再検討すべきものです。聖書時代の「レプラ」は、皮膚病全般を指す言葉で、現在のハンセン氏病とは別のものであることが確認されています。「重い皮膚病」と訳すこともできますが、ここでは、とりあえず、「レプラ」としておきます。当時、レプラ患者は、一般社会からは隔離され、道を歩くときも、「汚れている。汚れている。」と叫ぶように命じられました(レビ記13章45~46節参照)。まさにレプラは、肉体的、社会的、精神的苦痛をもたらす病だったのです。ひとりのレプラ患者が、イエスの前にひれ伏して、こう言います。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」(12節)。彼は、イエスの力は信じましたが、果たして自分のような者にあわれみをかけてくださるかどうか、確信がなかったのです。ルカは、イエスの応答を注意深くこう記しています。「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。」(13節)。もう長い間、彼にさわったのは、レプラ患者仲間を除いては、イエスしかいなかったにちがいありません。その行為は、幾千のことばよりも雄弁に、イエスの心を伝えています。「わたしの心だ。きよくなれ。」とあります。その瞬間、肉体も魂もともにいやされました。私たちも今、「わたしの心だ。きよくなれ。」というイエスのことばを、感謝して受け取りましょう。
イエスは、このいやしに関しては、だれにも話さないようにと命じます。民衆が、イエスを政治的メシヤにまつりあげることを恐れたのでしょう。しかし、意図に反して、イエスのうわさは、ますます広まり、さまざまな必要を抱えた群集が群がってきました。ルカはここで、「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」(16節)という一文を挿入しています。助けを求めて押し寄せてくる群集への奉仕、政治的メシヤになれという無言の圧力、霊的に幼い弟子たちへの訓練など、イエスにはさまざまな心労がありました。イエスにとって最も大切なことは、父なる神のみこころを求め、優先順位を絶えず明確にすることでした。あなたは、多忙な中でも、荒野(祈りの空間)に退いて、父なる神の指示を仰ぐことを、習慣的に行なっていますか。多忙なときほど、祈りが必要です。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神よ。私の救い主、信仰の導き手として、御子イエスを遣わしてくださり感謝します。今私を、あわれみの心と信仰で満たしてください。今日もまた、主イエスが私の心をご支配くださるように、お願い致します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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アモス書7~8、テサロニケ人への手紙 第一4
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