42 朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。
43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
44 そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。
ルカは、「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。」と記しています。マルコの福音書では、「そこで祈っておられた。」(1:35)との説明が入ります。イエスの生活の中心には祈りがあったようですが、どうしてでしょうか。(1)先ず認識しておきたいのは、神の子イエスが天の父と交わりを持つのは、当然だということです。イエスは、ひと時も、父なる神から離れたことはないのです。(2)祈りは、自分を取り戻す営みでもあります。前後の文脈を読むと、この時期、イエスは人々の注目を浴びる中で、実に多忙な時を過ごしておられたことが分かります。これは、イエスだけではなく、弟子たちにとっても危険な状態です。人は、物事がうまく行き始めると、往々にして自分が何者かを忘れることがあります。(3)また、祈りは、奉仕に必要な力を受ける営みでもあります。神からの力は、出エジプト記に出てくる荒野のマナのように、日々新しく受けねばなりません。あなたにとって、最近、物事は比較的順調に進んでいますか。そういう時こそ、イエスの例にならって、祈りの時をしっかりと確保すべきです。日々のデボーションを通して、自分を取り戻し、神の力を受けましょう。
イエスが祈られたもう一つの理由は、使命の確認にありました。群集は、イエスをいつまでも自分たちの所に引き止めておこうとしました。しかしイエスは、「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」(43節)と、お答えになりました。そこには、(1)「派遣された」という明確な使命感があります。イエスのメシヤとしての使命感は、祈りの中で、徐々に深められていきました。(2)緊急性があります。時は限られています。しかし、残された仕事は多いのです。(3)伝えるべき明確なメッセージがあります。イエスのメッセージの中心は、「神の国の福音」です。「神の国」とは、王なるイエスが、私たちの心を支配される状態を言います。この神の国は、イエスを信じる者の内に、すでに実現しています。今、次の問いかけを、自分自身にしてみましょう。私には、「派遣されている」という使命感があるだろうか。「緊急性」をもって、その使命感に生きているだろうか。伝えるべきメッセージの内容を、十分に理解しているだろうか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神よ。あなたは、荒野でイスラエルの民の上に、日々マナを降らせてくださいました。そして今、人生の荒野を歩む私たちの上にも、日々霊的なマナを降らせてくださいます。毎朝のデボーションが、私にとって慕わしい時、命の糧を得る時となりますように、お導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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アモス書3~4、テサロニケ人への手紙 第一2
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