17 主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた。
18 主は、私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。
19 彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。
20 主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。
21 主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。
22 私は主の道を守り、私の神に対して悪を行なわなかった。
23 主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。
24 私は主の前に全く、私の罪から身を守る。
25 主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私のきよさにしたがって私に償いをされた。
預言的未来を描写していたダビデは、再び自分の時代に戻り、これまでに主がどのようにして自分を救ってくださったかを記しています。主の救出には五つの段階がありました。(1)主は私たちのいる所に下ってくださり、御手を伸べてくださいます。(2)主は私たちを捕らえてくださいます。(3)主は私たちを大水から引き上げてくださいます。大水とは比喩的表現で、数々の患難を指します。(4)主は私たちを、強い敵から救い出してくださいます。(5)そして主は私たちを、広い所に連れ出してくださいます。広い所というのは、安心できる場所、安全な場所のことです。
ダビデの詩に合わせて、主がこれまであなたのためにしてくださった数々の守りと救出のわざを思い起こしましょう。主の御名をたたえましょう。
主がダビデを救出された理由は、ダビデが信仰者としていつも主に喜ばれる歩みを目指し、聖と義を追い求め、罪と悪とから身を守ろうとしていたからです。「主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた」(21節)というのは真実です。(1)しかし、ここで言う「義」とは、絶対的な意味での義ではありません。ダビデもまた不完全な者でしたが、信仰の姿勢としては「主の道を守り、神に対して悪を行なわない」ことを心がけていました。(2)ダビデもまた罪を犯すことがありました。バテ・シェバ事件とウリヤ殺害がその最たるものです。罪を犯した時、ダビデは熱心に悔い改めました。その結果が詩篇51篇となって残りました。
この箇所から教訓を学びましょう。主に喜ばれる生活を志す人には祝福が注がれます。その祝福は、単に物質的なものでなく、霊的なものでもあります。この原則は、今も変わりません。もし私たちが罪を犯すようなことがあるなら、ただちにその罪を告白して主からの赦しを受け取るべきです。使徒ヨハネは、こう教えています。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)。今、主の招きに応答して栄光の御座に近づきましょう。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。どうかあなたに喜ばれる歩みを続けることができますように、私を助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
エゼキエル書14~15、ガラテヤ人への手紙4
ハーベスト・タイムによる無料の聖書講解動画(音声)サイト。
最新のメッセージ
毎朝6時にきょうの【クレイ】が
あなたのLINEに届きます!